中越地震の調査をしているときに、母子3人が乗った車が巻き込まれた崩落現場の近くを通ったとき対岸から現場を見て感じたことですが。
(写真は崩落現場を対岸から写したものです)
崩落現場はほんの僅かな距離だけで起こっていて、その前後ではまったく岩が崩れていませんでした。
母子3人が乗った車が100m先か、100m後であったら巻き込まれることは無かったのにと考えさせられました。
ほんの僅かの差で人間の運命が左右されてしまったとつくづく思いました。
僅かな差は何から生まれるのでしょうか。
注意していたから避けられる事故ではなかったし、人間の運命を左右するものがあるのでしょうか。
そういえば、最近セキスイハイムのコマーシャルで阿部寛が「幸せを貯金したいのですが」と郵便局で訪ねるシーンがありますが、私は逆ではないかと思っています。
人はみな皆幸せの量が同じでそれを使ってしまい次第に減っていく。
使いすぎるとその子孫の幸せの量まで使ってしまい、子孫の幸せの量が減ってしまうのではないかと考えています。
(写真は崩落現場を対岸から写したものです)
崩落現場はほんの僅かな距離だけで起こっていて、その前後ではまったく岩が崩れていませんでした。
母子3人が乗った車が100m先か、100m後であったら巻き込まれることは無かったのにと考えさせられました。
ほんの僅かの差で人間の運命が左右されてしまったとつくづく思いました。
僅かな差は何から生まれるのでしょうか。
注意していたから避けられる事故ではなかったし、人間の運命を左右するものがあるのでしょうか。
そういえば、最近セキスイハイムのコマーシャルで阿部寛が「幸せを貯金したいのですが」と郵便局で訪ねるシーンがありますが、私は逆ではないかと思っています。
人はみな皆幸せの量が同じでそれを使ってしまい次第に減っていく。
使いすぎるとその子孫の幸せの量まで使ってしまい、子孫の幸せの量が減ってしまうのではないかと考えています。
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by stray-blackcat
| 2004-12-04 19:28
| 社会